今日もいい天気で、こんなに天気がいいと嬉しい反面
崩れたときの寒さが思いやられます。
なんて、心配したってしょうがないよね。
その時はその時だよね。(笑)
川柳のお仕事もいよいよ選後評を書き始めました。
選後評を書くときは、まず原稿用紙に手書きします。
きっちりではなく、ポイントになる言葉を箇条書きにしてから
文章にします。その方が私の場合考えがまとまるのです。
何しろ、勉強不足の身ですからすらすら書ける時もあれば、
何度書きなおしても納得のいかない時もしばしばで、
そんなときは、時実新子先生の著書をつい読んでしまいます。
初心のころ、読むたびに元気にしてもらった本のあれこれです。
今日は「川柳新子座’90」が目に留まりました。
めくってみると懐かしいお名前が次々に出てきました。
「蕾」 咲いてみて私は薊だったのね 冨上 朝世
朝世さん、見つけました。
もう一句
「根」 いつか根を下ろす綿毛を吐き続け 冨上 朝世
一冊に二句もあるなんてすごいです。
次のページを捲ると
涙こらえるとすこうし根が伸びる 溝江 豪
そして次々と
「青」 別れの日カチンと青い月が欠け 溝江 豪
「水」 ガラガラと野心を鳴らすうがい水 溝江 豪
はっとしました。
溝江豪さんは、私の川柳の恩人のひとりです。
「新子座」が縁で知り合いとなりました。
偶然同じ町の家も割合近くに住みながら、ほとんどお会いしたことはありません。
でも、本当によくしていただきました。
溝江さんは川柳のほかに、短歌、俳句、詩もお書きになり、
地元の新聞で、よくそのお名前を拝見したものです。
私が初心のころ、アサヒグラフの「新子座」は現代川柳を書くものにとって、
本当に眩しく憧れの存在でした。
新子先生の選句眼もさることながら、選評がもう絶品なのでした。
こんな風に読むんだといつもため息とともに読んでいました。
「新子座」で溝江さんは常連さんでした。
そんな溝江さんがいつからか私のことを知って、「新子座」の
コピーを送ってくださるようになったのです。
私はなまけものなので、いつも「新子座」に投句するわけではありませんでした。
でも、投句したときは載る号が発売になると、本屋さんでまず立ち読みして
確かめて、載っていなくても買うこともしばしばでした。
そうすると、本ばかりがどんどん溜まっていくのです。
なんかのときにその話を溝江さんにしたかもしれません。
それから毎週、何年もずっと「新子座」のコピーをいただくようになりました。
なんだか心苦しくて、いつか溝江さんに
「本当にいつも申し訳ないです。こんなにしていただいても何にもできなくて。」と
電話で話したことがありました。
その時に溝江さんは
「この老いぼれが逝ったときは、葬式に来てくれればそれでいいから。」と
冗談っぽく言われたものでした。
その頃は、まだまだお元気でしたので、私も調子に乗って
「はい、約束します。」と言っていたのです。
そのうちに「新子座」のあったアサヒグラフもなくなり新子先生もお亡くなりになり、
いつか溝江さんとは、年賀状でのやりとりでしか縁がなくなっていました。
そして今年の六月、溝江さんの突然の訃報をまさかの思いで聞きました。
お葬式はこの町でもとても由緒あるお寺で執り行われ、
文芸関係の方々が大勢参列なさっていました。
ちゃんとお礼も言えないままのお別れに、
わたしのどこかが、まだ、ちくちくしています。
白いページを残しましたねごめんなさい 玉
まぼろしを束ねる火葬場の煙 かなえ